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熊野三山に通じる信仰の道、熊野古道。 新宮は古くから一大聖地として知られていた。

 しみいるような青い空、黒潮洗う白砂の海岸と深い緑の山やま…。自然の景観に恵まれた熊野は、昔から多くの人びとをひきつけてきた。とくに古代から中世、平安・鎌倉時代には「黄泉還り」のための聖地として、蟻の熊野詣といわれたほどのおびただしい人々の往来で賑った。三千六百峰の山やまを縫って、本宮・新宮・那智の熊野三山へと通じる熊野古道は、華やかな都の文化を熊野に伝える道でもあった。

柿本人麻呂といえば、万葉の歌人として知られているが、この人麻呂が大宝元年(701)、文武天皇に従って紀伊国を旅したさい、妻を恋うる心を浜木綿に託して次のように詠んだ。

 み熊野の 浦の浜木綿 百重なす 

 心は念へど 直に逢はぬかも


 人の世のうつろいに疲れ、気持ちが暗く沈んだとき、人ははるか離れた熊野にあこがれた。熊野は癒しの地でもあった。江戸時代の俳人・芭蕉は、七部集『ひさご』のなかで、弟子の曲水が、「羅に日をいとはる御かたち」と詠んだのを受けて、

 熊野みたきと泣き給ひけり

と、続けている。これは、平維盛の熊野参詣と入水を悲しむ女官の心を詠んだものだ。

 熊野への旅が特に盛んになったのは、平安時代に浄土信仰がひろまってきたことによる。京都からみて真南に位置する熊野は、現世における極楽浄土とみたてられた。

一般に熊野の地全体が観音の補陀落浄土と考えられていたが、本宮は阿弥陀仏のいる西方浄土、新宮は薬師如来のいる東方瑠璃浄土、那智は観世音菩薩の住む補陀落浄土になぞらえて、信仰を集めた。

 延喜7年(907)の宇多法皇から弘安4年(1281)の亀山上皇まで数えて10人の上皇・法皇が足を運んだ熊野詣は、白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇のころにとくに盛んになった。後白河上皇の熊野詣は33回、後鳥羽上皇が29回を数えたといわれる。京都から熊野へと詣でるコースは、川船で淀川をくだって大坂の天満橋付近に上陸し、現在の阪和線のルートを南下して紀州北部に着き、海南の藤白王子から湯浅?小松原?切目?田辺と抜け、さらに山間部をとおって発心門王子?本宮に出る中辺路を通った。

中辺路の稲葉根王子から上流の富田川は、昔は「岩田川」と呼ばれていて、熊野詣の水垢離場だった。供の公卿たちは、ずぶ濡れになって川を渡り、女院は二反の白布をつないだ結び目につかまり、大勢の女官たちにつき添われて川を遡った。京都から本宮までおよそ300キロメートル(約73里)。本宮からは川船で下流の新宮に出て速玉神社を拝し、王子ヶ浜から御手洗をまわり、三輪崎、佐野をへて那智に上った。

 三輪崎の高野坂は、美しい海岸線に沿って残る唯一の熊野古道として知られている。そこには、いまでも金光稲荷の手前の畑に高さ約2メートル、幅約20メートルの石積みが残っていて眼下に紺青の熊野灘、孔島や鈴島が望める。那智の浜にある浜の宮神社は浜の宮王子跡で、渚の宮とも呼ばれた。那智山に参拝する前、参拝の人々はここで潮垢離を行なって身を清めたという。帰路は那智から大雲取、小雲取の険しい山道を越すより大半は、来た道をふたたび帰った。三山めぐりだけでも112キロメートル(約28里)、山あり谷ありの難コースだった。京都?熊野間を往復約1ヵ月もかかる旅に供をする公卿や女官たちの一行は、ときには800人にものぼった。数多く参詣すれば、それだけご利益も多いと考えられたこともあって「蟻の熊野詣」といわれた大がかりな参拝は、およそ100年以上も続いた。それは京都の華やかな文化を熊野にもたらした1世紀だったともいえる。
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