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悩んでないで熊野へおいでよ!NO,12

執筆 : 
shingukk 2008-6-22 15:46
発心門王子は、京都・大阪方面から来た場合は、熊野本宮大社の入口にあたる。発心門は熊野本宮の聖域の入り口に立てられた鳥居で、菩提心を発願する門の意味だそうである。その昔は東西南北に四門有り、東は発心門、西は菩提門、南は修行門、北は涅槃門とされた。今は、そのような立派な鳥居はないが、世界遺産と記された大きな石碑がある。
平安末期(1109年)藤原宗忠参詣記・中右記によると発心門の前でお祓いをして、厳粛な心で大鳥居を潜って王子社に奉幣したとある。鎌倉時代初期(1201年)後鳥羽上皇の熊野御幸に従った歌人・藤原定家は、発心門にて「尼南無房宅」を宿所としたとある。この時、発心門王子は紅葉がとても美しかったと記している。
藤原定家が「入りがたき御法(みのり)の門は今日過ぎぬ、今より六つの道にかえすな」(難行苦行の末やっとの思いで発心門・熊野本宮の聖域にたどり着いた、ここからは、六道=地獄・餓鬼・畜生など人間の迷いの世界にかえらず、清らかな気持ちでお参りしたいもの)と詠んだ歌碑が建つ。
後鳥羽上皇熊野御幸記によると、京都を十月五日に出発して、発心門には十月十五日に到着・宿泊している。実に十一日間かけてたどり着いた。この尼南無房宅を尋常なりと言っているように、ここまでの宿泊はかなりひどく、隙間だらけの小屋に泊まったとか、床板のない土間に寝たとか、夏でもないのにハエが飛び回っている所に泊まったなどと愚痴ばかり書き綴っている。この後、本宮大社を参拝して、熊野川を舟で下り、速玉大社・那智大社と参り、熊野古道最大の難所・雲取越えをして、本宮に戻り、来た道を引き返している。この後鳥羽上皇の「熊野御幸記」とその時の「熊野懐紙」(歌を書いた和歌懐紙)は国宝である。道の駅「奥熊野本宮」には、その様子をわかりやすくイラストにして掲示している。

発心門王子?本宮大社までの約7kmコースが、熊野古道・中辺路ルートでは、特に人気がある。全行程の3分の1ほどは舗装道であるが、なだらかで、景色を楽しんだり、会話を楽しみながら歩くには、もっともお薦めできるコースである。歩き始めは、ぎこちない、どうしても感覚が鈍い。身体が変化に順応しきれない。明るいところから暗闇に突然入った時の感覚である。しかし次第に慣れてくる。そして感覚が冴えてくる。自然と一体化していくと、気持ちが良くなってくる。木々に包まれていると落ち着いてくる。これは、フィトンチッドの影響だろうか・・・植物は、害虫などから身を守るためにフィトンチッドを発する。中でも揮発性の高いテルペン類という物質は、自律神経に作用し、気持ちを安定させたり、集中力を高める効果があるとされる。感覚が冴えてくると、鳥の鳴き声が心地よい、風が心地よい、日差しが心地よい、草花が美しい、自分を取り巻く全てがありがたい。そんな気持ちになってくる。そして、自分が自然の一部であることを実感する。自然の一員であることが嬉しくなってくる。人間の体に何億という細胞があるように、地球全体から見ると、私という人間は、地球の細胞の一つであることに気付く。体の細胞の一つが病気の原因になるように、人間一人の行動や心の持ち方で、この地球が蝕まれるのである。病気の原因にある細胞が身体を苦しめるように、私たちは地球を苦しめてはいけない。ちょっと飛躍しすぎたが、マクロに捉えるとそんなことを感じてしまう。五感が目覚めると、些細なことに感動する。普段、気にもとめないようなことに感動する。次第に感嘆詞が増える。最近の自分を振り返ってみると、「わぁ!気持ちいい。」とか「わぁ!美しい。」なんて感動しているだろうか・・・物があふれている現代社会で忘れてしまったもの、物のありがたさ等も湧いてくる。そして人の些細なおもいやりなども身にしみる。それら全てを感じることができれば、それを感じている自分が本当の自分であり、自分らしさかもしれない。
発心門王子では、2?3枚写真を撮って、再び車で3kmほど先の伏拝王子に移動した。

悩んでないで熊野においでよ!NO,11

執筆 : 
shingukk 2008-5-18 15:52
車は、熊野川(十津川)と北山川に分かれる宮井のあたりを走っていた。本宮大社までは、あと15分位である。
北山川を上流に上ると渓谷が美しい「瀞峡」に至る。瀞峡には、宮井の少し下流にある志古乗船場からウォータージェット船で行くことができる。
我々は、車を熊野川(十津川)沿いに走らせた。このあたりの渓谷も素晴らしい。以前、ある外国の総領事が来られたとき、「中国の三峡下りをしたことがあるが、スケールでは三峡に及ばないが、美しさではここも負けない。」と言ってくれたことを思い出した。毎回、案内でここを通るときは、自慢気にその話をしてしまう。川に迫り来る岩山は、誇らしげにそそり立っている。ただ残念なことに、上流にできたダムの影響で水量が少なく、川幅は広いが昔の大河の流れを見ることができない。

本宮大社前を素通りして、道の駅「奥熊野本宮」に車を止めた。いつもは、本宮大社前に車を止め、バスかタクシーで発心門王子まで向かい、本宮大社までの約7kmを歩くのだが、今日は時間がないので、車で回れるところだけを案内することにした。
道の駅の芝生に腰をおろし、めはり寿司を食べることにした。目の前には、水の流れが見えない砂利だらけの熊野川、左手には、果無山脈が屏風のようにそそり立っている。3月末の風は、まだまだ肌寒かった。
「うまいですね。」めはりをほおばって、彼は言った。
「うまいでしょ。これは温かいごはんでおむすびを作り、それを醤油とみりんのたれにつけた高菜の漬物で包むんです。出来立てをすぐ食べるより、少し時間をおいたほうが、うまいですよ。丁度、食べ頃じゃないですか。」私も時々作る。最近では、食べやすく小さめに握るが、昔は、ソフトボールほどの大きさに握り、食べるときに、口も目も大きく張ったことから、めはりの名の由来があるとか。また、酢飯で作ったり、一口大の大きさに作ったり種類は増えたが、昔ながらの素朴な味が一番である。二人は、4個入りのめはり寿司をあっという間に平らげた。30分ほど昼食と休憩時間を取り、発心門王子に向かった。

悩んでないで熊野においでよ!NO,10

執筆 : 
shingukk 2008-4-24 12:07
車は、国道四十二号線から一六八号線に入り、本宮大社に向かった。トンネルを抜けると、突然、熊野の山々と悠久の流れの熊野川が視界に飛び込む。先ほどまでの市街地の風景と打って変わって、たったトンネル一つで隔たれた別の風景である。この熊野川沿いの道は、私の大好きなドライブコースのひとつである。多くの車は制限速度以上のスピードで走り抜けるが、私は、後ろの車には先を譲り、できるだけゆっくりと走る。そして、川沿いの景色を楽しむ。
助手席の彼に目をやると、テンションが下がり気味であった。疲れたのだろうか・・・

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悩んでないで熊野においでよ!NO,9

執筆 : 
shingukk 2008-3-25 12:15

急な石段を降りながら、
「彼女にまた会うかもしれませんね。」と言うと、彼は、どうして?というような不思議な顔をして私を見た。人間って不思議で、会いたい会いたいと思ってもどうしても会えない人もいれば、会いたくないと思っていても会う人もいる。無理に会おうとしなくても、必要なら会うようにできている。必要でなければ、会う機会がない。会いたくない人に会うのも、何か必要な理由があるからだろう。会いたくないと思う前に、どうしてこの人に会ったのか?自分に何を教えるために会わせてくれたのか?理由探しをしてみるのも面白いものだ。
以前、私の知人が、あなたにどうしても会わせたい人がいる。と言って、会いに行かないかと誘われたことがあった。会わせたいその方とは、霊感のすごく強い人で、一度会ったらきっと親しくなるような気がすると言って・・・何とか私をその人に引き合わせたかったみたいだ。その時、私は、「本当に会うべき人なら、無理をしなくてもきっと会う機会がありますよ。」と答えた記憶がある。その後、一ヶ月もしないうちに、お茶の先生のお宅で、私はその人に会った。それもお互いがちょっとした用件で立寄っただけなのに・・・不思議なもので、初対面でしたが、お茶の先生を交えて一時間ほど話をした。とても素敵な方で、その後も何度か会っている。でも、会う約束などはしたことがない。その話を私に会うことを勧めた知人にするとかなり驚いていた。
私は日常的によくそんな経験をする。

大雲取越えで出会った人に、翌日、小雲取越えで出会う。これは当たり前ですが、普通ならそこで終わる。しかし、最後に観光協会で出会う。
学校の体験学習の下見で来られた先生方を案内した時、小口から大雲取を越え、途中の地蔵茶屋で昼食をとった。地蔵茶屋の建物の中で我々五人は弁当をひろげ、賑やかに食べていた。そこに一人の青年が入ってきた。というよりいつ入ってきたのか気がつかなかったが、気がつくといつの間にか彼がポツンと一人で離れた場所に腰を下ろし、弁当を食べていた。しばらくして食事を終えた彼は、ふくらはぎあたりを手でもみだした。我々も膝、ふくらはぎにかなり負担を感じていた。しかし、彼は何やら痛そうにしていたので、私は持ってきたテーピングを取り出し、彼に近づいた。
「どうした?足痛めた?」
「えっ、えぇ・・・昨日、新宮からずーっと歩きっぱなしで、膝の周りに鍼をうってるんですが、膝が痛くて・・・」
「これ、テーピングあげるから・・・膝の上に巻いておくだけでも効果あるよ。これから小口に向けてかなり厳しい下り坂があるから・・・」といって差し出した。
彼はテーピングをすると「ありがとうございました。」といって早速出発した。
翌日、観光協会の主催で小雲取ウォークがあり、私は請川から小口に向けて歩いていた。百間ぐらの手前で再び彼に出会った。こちらは八十名ほどの団体で歩いていたので、私から声をかけても、最初キョトンとしていた。が、すぐに
「あぁ・・・昨日はどうもありがとうございました。」
「無事、小口に着いた?」
「はい、四時半頃何とかたどり着きました。きつかったです。」
「足の具合はどう?」
「はい、おかげさまで今日は何とか・・・」
「そう・・・良かったね。この先もあまり無理しないようにね。じゃあ。」と言って私は手を上げた。彼は礼儀正しく会釈をして歩き出した。
次の日、私は観光協会の事務所にいた。十時過ぎ、一人の青年が入ってきた。私はすぐに大雲取、小雲取で出会った彼であることに気がついた。彼は、パンフレットなどを見ていたのでこちらから「何かお探しですか?」と声をかけた。顔をあげた彼は、ニヤニヤと笑っている私を見て、信じられないといった顔をした。そして、
「三回も会うなんて奇遇ですねぇ。」といった。私は奇遇とは思わなかった。はにかみ屋に見えた彼は、新宮のことをかなり知っていて、三十分ほどいろいろな話をして、最後に、
「あの・・・また、来たいと思いますので、お名前を教えていただけますか?」といった。私は名刺を渡した。
「ありがとうございます。私はスガタと言います。絶対また来ます。」といって彼は出て行った。
目的が同じなら、何度か会う機会は必ずあるものだ。これを縁というのか。同じ波長を発していればどこかで繋がる。神倉神社に上っている彼女も、そう、多分、那智か本宮あたりで会うだろう・・・と、ふと思った。
五三〇段余りの石段をやっと降り、下の鳥居で振り返り、会釈をして私たちは神倉神社をあとにした。

悩んでないで熊野においでよ!NO,8

執筆 : 
shingukk 2008-3-25 11:54

神倉神社山頂の境内にある朱塗りの鳥居には、黒ずんだ箇所がいくつか目に付く。これは、お燈まつりのすさまじさの残骸である。鳥居の山門を閉められ松明の煙でいぶされるとき、血の気の多い上り子が、苦しさのあまり早く開けろと山門を火のついた松明でたたき騒いだ跡である。毎年、山門付近で上り子と介釈の間に小競り合いがある。子供連れや年寄りなどは、山門より離れた奥の場所で待機するから安心である。我先にと駆け下りるのも順位を気にする先頭集団だけである。子供連れや年寄りは松明の灯りで足元を確かめながら「わっしょい、わっしょい。」と声をかけながらゆっくりと下りる。
私たちは、その黒ずんだ箇所を手でなぞりながら鳥居をくぐった。お燈まつりの翌日は、祭りの余韻というか松明のきな臭さが残る。今はその匂いはない。

なだらかなくだりの石段が続く。突然、ヒヨドリの啼き声が耳に入った。上ってくるときも啼いていたのだろうか。
「鳥の声、聞こえますか?」
「ヒヨドリですね。」と彼はすぐに答えた。普段あまり鳥の啼き声が気に留まらないのに、五感が開放されると快く耳に響く。
「私は、熊野古道を歩くと、よく鳥の声を耳にします。そんな時は、いつも小鳥たちが、がんばれ!がんばれ!と励ましてくれているように聞こえてくるんです。」
「わかるような気がします。私も手術後、自宅で寝ているときに、よくヒヨドリが来て、啼いていたように思います。」
「そんな風に思うと、鳥だけではなく、風も心地よく私を励ましてくれているように思うんです。そして、木々もパワーを送ってくれます。私のまわりの自然界の全てが総力を挙げて、がんばれ!がんばれ!とエネルギーを与えてくれるんです。そんなこと感じたことありますか?」
「ないですね?」
「じゃあ、今日は、しっかりと五感を開放して、そんな気分を味わってみてください。」
中の地蔵までの下りで、数名の人とすれ違い、軽く会釈を交わした。中の地蔵から下は、急な石段である。上りは、上ばかり見て上っているので気づかないが、下を見るとまるで垂直かと思うほど急峻で、高所恐怖症の人には、お勧めできない。きっと足がすくむだろう。彼は、四つん這い状態ではしごを下りるような格好で下りた。
「よくこんなところ、駆け下りますね。」と足元を確かめながら言った。私の場合は、神倉神社麓の千穂小学校出身なので、小学校の頃は、朝、登校前に友達と神倉神社に登り、頂上で麓の小学校の予鈴を聞いて、遅刻しないように一斉に競って駆け下りたものだ。
「まぁ、馴れですよ。」と答えて、数段、駆け下りてみせた。
「わぁ?、やめてくださいよ。」そう言って彼は、四つん這いのまま固まってしまった。
下から二十代後半と思われる女性が一人でリュックを背に上ってきた。
「こんにちは。もう少しで急な石段は終わりですよ。その後は、なだらかな階段ですから・・・あと少しがんばって・・・」
「気をつけて・・・」彼もブザマな格好だが、気を取り直して涼しい顔を装って言った。彼女を下から見上げる状態で見送った。

悩んでないで熊野においでよ!NO,7

執筆 : 
shingukk 2008-3-25 11:51

頂上の社殿に着くと、
「わぉ?。これはすごいわ。」と彼は興奮気味に言った。頂上には、若い男性が一人と、二組の六十代前後の夫婦がいた。
「あれが、ゴトビキ岩と呼ばれ、熊野の神が光臨したと言われる所です。あの江原さんは、この社殿の前に立ち、写真を撮っていますよ。同じ場所で1枚どうですか?」と言って、彼を社殿の前に立たせ、階段の下からシャッターを押した。場所を変え、2?3回シャッターを押した。神倉神社のゴトビキ岩の下からは、弥生時代の青銅器が出土していることからも、いかに古くからゴトビキ岩を信仰の対象にしてきたかがうかがえる。現在の社殿は、ゴトビキ岩の下に小さく建てられているが、明治の初めに倒壊するまでは、ゴトビキ岩を包み込むほど大きな社殿であったらしい。その証に礎石が残っているが、それは、境内の平地をはみ出るほどのものである。ここも明治の廃仏毀釈、修験道廃止令などによって荒廃した。

神倉神社からの市街地の眺めは最高である。538段の石段を登ったものだけが手に入れることができる風景である。左手には、熊野川と新宮城跡のこんもりとした森を望み、正面には、水平線までさえぎるものが無い熊野灘が広がる。最近は、新年のご来光を拝もうと元日の朝は人気のスポットになっている。
新宮市の旧市街地は、東西南北それぞれ約2キロほどの小さな町並みである。しかし、ここが、かつては熊野川流域や熊野灘沿岸の人や物が集まる中心として栄えた「熊野の都」なのである。度重なる震災や洪水、火災や戦災、そして時代の流れの中で取り壊されたりして、今は古き面影はほとんど残ってない。この町が、神話の時代から上皇たちの熊野御幸で賑わった平安時代、鎌倉時代を経て、明治時代に至るまで熊野三山の信仰の中心都市として賑わい、明治から昭和時代にかけては、経済の中心として栄えたのである。その歴史の流れを何千年も変わらず見下ろしてきたのが、まぎれもなくこの『ゴトビキ岩』である。時空を越えてあらゆるものを見てきたのである。新宮の町の変遷をまるごと見てきたのである。時代時代の人々の数々の誤った判断や反対に正しい判断。全てを見てきたのである。そして、それらの誤った判断や正しい判断の結果、今のこの町があることもよく知っているのである。だからどうしろとも言わない・・・何千年も言わなかったように・・・じっと見据えている。長い年月多くの人が手を合わせてきたように私もゴトビキ岩に手を合わせ頭を垂れた。ゴトビキ岩には、長さ30m、重さ200キロ、中心の部分で直径30cmほどある大注連縄が張られている。これも戦後張られるようになったようで、もともとは神倉地区の農業組合の奉納だった。最近は、農家も減り藁の調達にも苦労をしている。現代では、神倉奉賛会、神倉青年団のほかに、新宮商工会議所、新宮青年会議所、観光協会なども協力して注連縄を作り、お燈まつりの前に張り替えている。

彼は、しきりにシャッターを押している。撮影を終えた彼は、私の横にやってきた。
「正面に見える熊野灘を、江戸時代には、交易の船が行き来していたんですよ。左手の小高い森が新宮城跡で、あの城から熊野灘の往来を監視していたんですね。ですから新宮城は沖見城とも呼ばれたそうです。それと新宮城の港から河口を出て、江戸に木材や炭を出荷していたのですが、あの河口は、潮の満ち引きによって、河口がふさがったり、広がったり、大変だったみたいです。この新宮から出荷された木材は、江戸の木材消費の三分の一を担っていたそうですよ。また、紀州備長炭と呼ばれる上質の炭も江戸の炭相場を左右させるほどだったらしいです。すごいでしょ。こんな辺鄙なところが・・・ちなみに新宮城跡は国の史跡に指定されてます。」彼は、じっと眺めていた。彼は、すべてが何かの力によって導かれ、今、ここに立っていることを納得している様子であった。見えないものの力によって人は生かされている。そして、人や自然界のあらゆるものを介して、何かを教えられている。私は、彼に特別何かを伝えているつもりではないが、一言一言に感心している様子であった。

十分ほど、神倉神社からの眺めを楽しんだ後、降りることにした。
境内の桜は、あと一週間もすれば満開になりそうだ。

悩んでないで熊野においでよ!NO,6

執筆 : 
shingukk 2008-3-25 11:47

石段は、自然石を積み上げたものなので、大きさもまちまちである。手ごろな足場を探りながら上った。三十段ほど上ると、彼はすでに肩で呼吸をしていた。休憩がてら立ち止まって、お燈まつりの話をした。「この神倉神社の例大祭として、毎年二月六日夜に行われるお燈祭りは、最近では二千人前後の上り子と呼ばれる祈願者が、白装束に荒縄を巻いたいでたちで、この石段を上るんですよ。その日だけは、女人禁制なんです。私たち新宮に生まれた男子はほとんど上りますね。
私の息子も三歳の時、初めて背負われて登りました。初めて上ることを初上りと言うんですよ。上の境内で神事が終わり、全員の松明にご神火がいき渡ると、少しの間、煙に燻されて、そして、午後8時頃、神門が開くと上り子たちは、一斉にこの石段を駆け下りるんです。その様は、山は火の滝、下り竜と新宮節にも歌われていますよ。」「へぇ?。そんな小さな子供も上るんですか?危なくないですか?怪我などしないのですか?」急な石段を見下ろし、感心しながら言った。「もちろん危険ですよ。でも、危険だからこそ、みんなで子供や年寄りを守ります。お燈まつりに上るときは、阿須賀神社と速玉大社、そしてこのすぐ近くにある妙心寺の三社参りをして上るんですが、その時、上り子同士が松明をぶつけて『たのむでぇ、たのむでえ!』と声をかけるんです。たぶん危険な祭りだからこそ、そうやってお互い誰とはなしにたのむでえと言いたくなるんじゃないかな。とても危険な祭りですが、その分緊張感もあり、毎年、この祭りが近づくと上りたい衝動にかられます。うちの息子もそうですよ。お父さん、今年は上らんの?と聞いてきます。
お燈まつりは男なら誰でも上れるだけに二・三才の幼児から八十才代のお年寄りまでいろんな年齢の男子が上ります。最近、小学生・幼稚園児などより、祈願者として、あるいは人としてレベルの低い青年が目立ちますね。足元がおぼつかないほど泥酔してて、注意されるとくって掛かるような恥ずかしい上り子がいますよ。まわりから見るとみっともないのに本人はかっこいいと思ってるんでしょうね。羞恥心がないんでしょうね。新宮の男の人にお燈まつりの話をしたら、あの時はこうだったとか、昔はこうだったとか、うんちくが始まって、なかなか終わらないですよ。俳優の原田芳雄さんなんかは、もう十数年登っていて、この日だけは新宮人みたいな顔してとけこんでますからね。最近は外国人もチョコチョコ見かけますし、何も知らずに来て、当日何とか参加できないかと頼まれたこともありますよ。もちろん何もかも手配してあげましたが・・・」
江戸時代には、信州高遠藩士が新宮に来て、このお燈まつり見物をした様子が新宮市史に記されている。神倉山に人が物をたたく気配がするのは天狗のせいであろう。千人あまりの上り子が先を争うのは所願成就のためで危険な見物であると記されています。明治の修験道廃止令以前は、お聖様(神倉聖)が1週間前から斎戒沐浴、白装束で入山し、お堂に籠り、7日間の断食荒行を修行したらしい。お聖様は、飲まず食わずお堂に端座し、寒風に吹きさらされながら、一心不乱に寒行に堪えるその光景は、誰一人見ることは許されず、秘密の法として行われたようである。そして、お燈まつり当日の夕刻、疲弊しきったお聖様を屈強な男が背負い下山、権現山の麓を熊野川に向かい、乙基の渡しを越えて北桧杖の荘司家で休養したという。今はこのような修験道の荒行の名残はないが、ご神火をいただくまで待機している間の寒さと松明に火が点いてから燻される苦しさも修行の一つであろう。
お燈まつりは明治になり新暦の2月6日に改められたようである。ところで昭和二十年というと終戦の年だが、その年も催行されている。ただ、戦時下ということで時間を早めて5時ごろに行ったようである。子供の参加も終戦後ではないだろうか。明治のはじめ頃までは、権現山の別の麓で、夏祭りの行事として、小さな松明を持った白装束の子供たちがちょっとした石段を駆け下りる『子供のお燈まつり』が行われたようである。時代と共にお燈まつりも変わりつつある。お聖様の荒行や子供のお燈まつりなどは今では忘れられている。

彼の呼吸が整ったようなので石段を上ることにした。急な石段を上りきったところに小さな広場がある。中の地蔵と呼ばれる場所だ。昔のお燈まつりは、上り子全員が中の地蔵で籠り、迎え火が下りてくるのを待ち、その火を各自の松明に点火した。それから山頂に上りお堂に籠ったようである。ここ『中の地蔵』の本願所が三社参りのひとつ『中の地蔵本願』と呼ばれた妙心寺である。中の地蔵過ぎると後はなだらかな石段に変わる。休憩を取らず一気に上ることにした。

悩んでないで熊野においでよ!NO,5

執筆 : 
shingukk 2008-3-25 11:41

めはりやに寄り、めはり寿司を受け取って、神倉神社が正面に見える通りを車で走った。天気もよく、神倉神社はすっきりとした姿を見せている。この通りからの神倉神社とゴトビキ岩の眺めは最高である。ゴトビキ岩の注連縄もはっきり見える。欲を言えば電線がなければ・・・ 一度国道42号線に出て、神倉神社ふもとの駐車場に車を止めた。
神倉神社の入り口である太鼓橋の前で、下馬石の説明をした。この石碑は、1,672年、奥州(現・東北地方)の大銀与兵衛盛道が熊野三山に七回参詣した記念に寄進した石碑である。現代と違い、自分の足で片道約1,200kmほどの道のりを歩いて、この地まで7回も参詣した記念に建てられたものである。それほど、熱烈な熊野信者だったことがうかがえる。これだけ便利な時代になっても東北地方から7回も来る人がいるだろうか?疑問である。便利になりすぎたからかえって本当の熊野詣の意味を見過ごしているのかも知れない。熊野に至る過程より、熊野三山の社殿の前にぬかづくことだけを目的にしていないだろうか。ただ社殿にぬかづけばご利益があると勘違いしていないだろうか。
世界文化遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」は高野山や熊野三山の社寺とそこに通じる参拝のための道ではあるが、それら霊場に通じる道中の自然や人間をも含む文化的景観が大きな要因でもある。文化的景観とは、自然と人間の営みが長い時間をかけて形成した風景のことで、山や木、岩や滝なども多くの人が長い年月をかけて手を合わせてきたから信仰の対象となり「文化的景観」として認められたのである。神倉神社の「ゴトビキ岩」はまさにそれである。何故7回も熊野詣をしたのか?もちろん熱烈な熊野信者には間違いないが、それ以外にまた行きたいという強い思いには何か別の要因もあったように思う。達成感や清々しさ・・・それにものの考え方や自身の生き方へのヒントなど道中で得るものもご利益の大きな部分を占めたのではないだろうか?そして、人生の節目節目で何かをリセットするために熊野への遠い、そして険しい道を歩いたのではないだろうか?その本当の答えは熊野への道をひたすら歩くことでしか見出せないように思う。
神倉神社の下馬石のほかに、速玉大社境内にも「奉八度参詣の碑」がある。これも1,708年奥州久慈八日町(岩手県)の吉田金右衛門が熊野に8回詣でた記念に建てたものである。 太鼓橋を渡り、石段下の鳥居前に進んだ。「この石段は、530段余りあります。源頼朝が寄進したと伝わるものです。

また、日本書紀には、神武天皇が熊野神邑に至り、天の磐盾に登ると記されていますが、熊野神邑は現代の新宮市あたりで、天の磐盾は神倉山のことと言われています。神話の時代からの由緒ある場所なんですヨ。」彼は、持ってきたデジカメで感心しながら、しきりに写真を撮っていた。石段は下から見上げるだけでも価値がある。登る自信のない人はあきらめてしまわず、石段の下からでも手を合わせていただきたい所である。「さぁ。ボチボチ上りますか?」と彼に促し、鳥居をくぐることにした。石段は、最初かなり急峻で手のひらを立てるように、目の前に立ちはだかっている。鳥居の脇では、急な石段を登れない老婆が、手を合わせ、上を拝みながら、何やらお祈りしていた。

悩んでないで熊野においでよ!NO,4

執筆 : 
shingukk 2008-3-25 11:35

翌朝、いつもより十分ほど早い目に出社して、掃除をしていると、昨日休みだった職員のKさんが出社してきた。彼女には、昨夜の内に、一連の出来事を電話で説明しておいた。そして、今日、案内のため、事務所を空けることの了承を得ていた。
彼女も一連のいきさつに興味を示し、彼の来訪を待っている様子であった。彼女は、電気ポットに水を入れ、お湯を沸かし始めた頃、彼は訪ねてきた。

「おはようございます。Tさんいらっしゃいますか?」
「はい。私ですが・・・」
私はすぐ彼だとわかったが、彼には私がわからなかったみたいだ。
彼は、昨日の電話のやり取りやしわがれた私の声で、私の年齢を六十歳代と読んでいたようである。失礼である。想像していたより若かったらしく、一瞬驚いたような表情をした。
「あっ。はい。失礼しました。このたびは、突然のお願いで・・・いろいろとお世話になります。」彼を事務所の奥に招き入れた。
「遠いところ、大変でしたネ。昨夜は、松阪でどうされました?」
「はい、昨夜はビジネスホテルに泊まりました。結構、寒いですね。こちらも・・・外ではチョッと・・・」駅のベンチか、その辺で仮眠する予定だったのか、想像以上の寒さにやむなくビジネスホテルに泊まったようである。
「彼女は、Kさんです。Hさんの事は話してますから安心してください。そして、彼女も話を聞いてくれますよ。」と彼女を紹介すると、彼は安心した様子で話し始めた。
「よろしくお願いします。昨日たまたま、川上不白の件で電話をしたら、Tさんが出られて、いろいろと親切に教えてくれまして・・・。実は、二年前、白血病のため、骨髄移植の手術を受け、五年間ほどは様子を見ないと何とも言えないらしいのですが、この通り、今のところ健康です。からだは健康なんですが、今とてもきついんです。」Kさんは、あいづちを打ちながら、
「私の父も白血病で亡くなったんです。最近では、骨髄移植も出来ますが、あの当時は・・・」と目を伏せた。
彼は、ドナーの方からの手紙を取り出した。
「この方が、どこの誰だかわかりません。でも、和歌山県の方であるような気がするのと、川上不白の守・破・離の言葉を持ち出しているので、そのことについて調べていると、新宮に辿り着いたのです。」彼は、現在、母親と一緒に暮らしていること、今回の旅行について母親にきちんと伝えてきたことなど、話し続けた。そして、つい最近、付き合っていた彼女に「友達でいましょう。」と言われたことも打ち明けた。ここが一番の悩みなんじゃないのか?傷心旅行か・・・彼女は、病気と闘って元気を取り戻した彼にひかれ、交際を始めたらしい。しかし、最近、運行管理の仕事の愚痴ばかり言って、やる気をなくしている彼に、少し距離を置くことを考えたようである。
「熊野には、いろいろと癒してくれる場所がありますよ。例えば、新宮市なら神倉神社。ここは最近人気のスピリチュアル江原さんが、本の表紙に使っているほどの場所で・・・」と言いかけると、彼は、
「へぇ?。すごいですネ。実は、僕も彼女も江原さんの本は愛読してますよ。へぇ?。そうだったんだ。これって偶然じゃないですよね。江原さんも熊野に来てるんだ。」としきりに感心している。実際、江原さんの本を見て、訪ねて来た人もいる。
「じゃあ、後で行きましょう。案内しますよ。でも、そこだけじゃないですよ。本宮にも那智にもすごい場所はいっぱいありますから・・・」彼は、完全に偶然ではなく、導かれていると感じ始めていた。この世には、偶然なんてない。言葉としては存在するが、すべての出来事には原因があり、そして結果がある。彼は、今日、熊野に来ることになっていた。その原因は何だろう?病気になったこと?仕事が嫌になったこと?彼女に友達でいましょうと言われたこと?そのどれかが原因ではなく、どれも絡み合って、そして、ドナーの方の手紙や私との電話でのやりとりも絡み合って、結果、彼は熊野にやって来たのだ。それも、今。
事務所での会話もそこそこに早速でかけることにした。
出掛ける前に、めはり屋にめはり寿司を二人前注文した。今日のお昼は、外でめはり寿司をほおばることにした。めはり寿司とは、熊野地域の郷土料理で、高菜の漬物で包んだおにぎりである。とても素朴な食べ物である。各家庭でもよく作ったが、高菜の漬け方などでそれぞれ家庭によって味が違ってくる。手間を考えると最近はついつい買ってしまう。色んな所でめはり寿司を見かけるが、本家本元は、やはり新宮の「めはりや」である。

悩んでないで熊野においでよ!NO,3

執筆 : 
shingukk 2008-3-25 11:27

夜行バスは、大宮・池袋と南紀勝浦を結ぶもので、三重交通と西武バスが共同運行している。池袋を21時35分に出て、新宮には朝8時に着く。以前、東京の学校に通っていた私の姪などは、安くて、時間を有効的に使えるので、帰省の時はよく利用していた。ただし、旅行シーズンや週末には早い目に予約しないと満席になる。
案の定、数分後、彼はガッカリした声で「夜行バスは満席でした・・・ほかに安く早く行ける方法はありませんか?」新幹線を使って、名古屋から特急南紀号に乗り継げば、今日中に新宮に着くのだが、片道一万五千円ほどかかる。
「今、春休みなので、JRの青春18切符なんかも手ですよ。一万一千五百円で5日間乗り放題です。一日あたり二千三百円、ただし、特急などはダメですよ。快速か普通だけ・・・東京からだと十二時間位かかると思いますよ。」
「へぇ?十二時間? 朝、出発しても一日潰れますね。」
「そうですね・・・時間を取るか、お金を取るか、どちらかでしょう。」
何故、十二時間かかることを知っているかというと、実は、昨年の夏休み、三人の子供達を連れて、青春18切符で東京ディズニーランドに行った経験があるからだ。何度も時刻表とにらめっこして、最終的には、全行程を普通列車では疲れるので、新宮から多気間のみ特急南紀号を利用し、多気から名古屋間は快速みえ号、名古屋から豊橋間は新快速、豊橋?東京間は普通電車を乗り継いだ。朝、九時に新宮を出発して、東京駅には、十九時三十分頃到着した。浜松を過ぎるあたりから十一歳の長女と九歳の次女は、もう、うんざりといった表情でうたた寝を繰り返していた。ちなみに帰りは、六歳の長男から「新幹線に乗りた?い、新幹線に乗りた?い。」としつこくせがまれたので、熱海から浜松間のみ、こだま号を利用するはめになった。その後、長女はどこへ行くにも、その時のことを引き合いに出し、あんなのだったら二度と行きたくないとハッキリ言う。それまでに、四?五回新幹線を利用して東京ディズニーランドにいった経験があるので、スピード化時代に慣れてしまった現代人には、よほど苦痛だったのか。そのうち、もう少し成長したら、スローライフの楽しみ方もわかってくると思うが・・・
「あっ、そうそう、青春18切符は、東京発大垣行きの夜行快速が指定席だけ買えば利用できるはずですよ。東京を二十三時台に出ますので、本日分の切符を買って、二十四時以降は18切符を使えば得だと思いますが・・・明日の早朝、名古屋に着きますので、普通電車を乗り継いで来られたらどうですか?それでも、新宮に着くのは昼過ぎになりますが・・・」
「そうですか。一度JRに確かめてみます。また、後ほど電話させていただきます。」
夜行バスがだめだった。これで夜行列車もだめなら、彼は諦めるのかな?などと考えながら机の上に目をやった。朝一番の電話がこれだったので、一本の電話にかかりっぱなしで、時刻表とパソコンしか見てなかった。机の上には封書やファックスなどいつもの仕事がいくつか積まれていた。
三十分ほどして彼から電話があった。
「ダメでした・・・春休みの金曜日なのでとても混んでますね・・・でも、JRの高速バスで、とりあえず今日、名古屋に出ます。もう、予約を取りましたから・・・」彼は興奮気味に言った。
「えっ。じゃあその先は?」と聞くと、やや落ち込んで
「どうしたらいいですか?」
時刻表を調べても、明日の朝までは乗り継ぎがない。
「今日中に、名古屋から近鉄の急行で、とりあえず松阪まで出て、明日の朝一番で、松阪発新宮行きの普通電車が5時20分にありますから、これに乗ると8時53分に新宮に着きます。これしかないですね。でも、松阪で宿泊することになりますよ。」
「はい、後は何とか考えます。とりあえず、行きますので、よろしくお願いします。」
「そこまでして、来るのだったら、新宮を案内してあげますよ。じゃあ、気をつけて・・・」と言って電話を置いた。藁をもつかむ気持ちでもがいているのだろうか。一連のやり取りで私も少し疲れた。そして間もなく十一時だから、二時間近くやり取りをしていたことになる。

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