新宮弁講座 ホームへ 新宮市概要 新宮市周辺地図 新宮観光案内 新宮のまつり 宿泊ガイド アクセスガイド 熊野古道を歩く 新宮市語り部の会 最新ニュース クチコミ情報 お店情報 画像ギャラリー 新宮ガイド わがらの新宮弁 新宮モダン リンク集

□ 2010年・熊野古道「中辺路完全踏破」体験記

執筆 : 
shingukk 2010-11-15 13:46
□ 2010年9月6日〜11日(5泊6日)熊野古道「中辺路完全踏破」モニターツアーを実施しました。体験レポートは、タウン情報にご紹介してます。

悩んでないで熊野においでよ!NO,21

執筆 : 
shingukk 2010-7-22 10:01
「へぇ〜、玉置神社ってどこにあるんですか?」
「十津川ですよ。本宮大社から車で1時間ほど奥なんですが・・・それはもう、あんな山の中に、よくあんな立派な社殿が建ったと驚きますよ。確か、国の重要文化財に指定されていたと思いますよ。一度行ってみる価値はありますね。それに時々、玉置神社に行かれる方も立寄りますが、玉置神社へ行く人は、ほとんど一人旅ですね。観光じゃなく、お参りに行かれるんでしょうね。でも、ここも車でないと行けませんから、ちょっと不便ですよ。」
「ほう〜、結構、見所があるんだ。一日二日じゃ無理ですね。まぁ、今日だって、こうやって案内してもらわなかったら、新宮市内しか見てないでしょうね。ほんと、ありがとうございます。しかし、私のような変な人間もたくさん来るんじゃないですか?」
「いやぁ・・・変なっていうか、悩みを持った感じの人は来ますね。一人旅というか、でも、悩みを持った人ってなかなか心を開いてくれないじゃないですか。声をかけてもすぅ〜っと逃げてしまう感じで、こちらは良かれと思って声をかけるんですが・・・若い頃、何度か一人でハワイに遊びに行って、むこうで親しくなった日系二世のおじいさんが言ってましたよ。観光客の日本人を見ると、つい、何か困ってないかと思って、声をかけていたそうなんです。でも、こちらは親切のつもりでも、何か下心があって、近づいてきたんじゃないかと勘違いされて、いつも嫌な思いをしたので、こちらから声をかけないことにしたって・・・その気持ちがよくわかります。より良い情報を教えてあげようと思っても、聞いてくれないとね・・・最近、詐欺まがいなことが多いから、簡単に人を信用しなくなったんでしょう。子供だってそうじゃないですか。一昔前は、挨拶をしましょうなんて言ってましたが、今は、声をかけられても口を聴いてはいけません。なんていってるでしょう。へたに子供に親切にしていたら、不審者と間違えられますよ。どうなってしまうんでしょうね。こうなったのも、ここ数十年の教育のあり方が原因じゃないですか。この地域が世界遺産に登録されたことを取り上げても同じですよ。全然、経済効果が無い・・・などと嘆いている人が多いけど、世界遺産に登録された価値をまず理解することが先決なんですよ。その価値もわからないで、世界遺産、世界遺産と言っても意味がないですよね。その人たちにとっては、世界遺産の価値よりもお金なんですね。エコノミックアニマルなんて、過去の言葉だと思ったら大間違いですよ。その人たちにとっては、財産はお金、お金、お金あるのみなんですよ。以前、新聞に作家の倉本聡さんが、書いていた詩にこんなのがありましたよ・・・『あなたは文明に麻痺してませんか?車と足はどっちが大事ですか?石油と水はどっちが大事ですか?知識と知恵はどっちが大事ですか?理屈と行動はどっちが大事ですか?あなたは感動を忘れていませんか?・・・』確かこんな内容でした。どう思います・・・あるべき自然のままの姿や先祖代々引き継がれた心や文化こそ、本当の財産だと思いませんか?日本民族が2千年以上変わることなく、引き継いできた天や地の恵、あらゆるものへの感謝の気持ちなどは、くそっくらえの社会になっているんです。難行苦行といわれた熊野詣を自分の足で歩いて参ることを復活させればいいかも知れませんね。相手に対する思いやりや感謝、物に対するありがたみや大事にする気持ちなど、心の教育には、もってこいだと思いますよ。学校教育に取り入れてほしいくらいですよ。」
「そうですね。いいかもしれませんね。点数主義よりは・・・」
「だから、悩みがあって、熊野に来ようとする人はまだましですよ。でも、折角、来たのなら、何かヒントを見つけて帰ってほしいと思いますね。心の目が開くというか・・・人間って考え方一つで180度変わるじゃないですか。状況が変わらなくても・・・よっしゃ、がんばろうって・・・気持ちが変わるじゃないですか。それですよ。私はいつもコップに半分の水の話をするんです。のどが渇いてどうしようもないときに、コップに半分の水があったら、『えっ、たったのこれだけ・・・』と思うし、お腹がいっぱいでちゃぷちゃぷしてるときは『まだあるのかよ。』と言いたくなる。同じ水の量でも、その時の状況や心のあり方で、少なくなったり多くなったりする。それが問題なんですよね。それを説いているのが『般若心経』じゃないかなと思うんですよ。実際には量は変わらない。でも、人は何事も心の色眼鏡で見てしまうから増えたり減ったりする。汚かったりきれいだったりする。好きな人からされると思いやりと取れることも、嫌いな人からされるとセクハラになってしまう。だから、心の目を開き、真実だけを見る。般若心経って解説本なんか読んでも難しいじゃないですか・・・まぁ、これは私なりの解釈ですが・・・でも、これが正解だなんて思ってませんよ。いろんな解釈があって当たり前ですから・・・まぁ、これも一部かな?程度ですよ。一番厄介なのが、答えを決めてかかる人、もしくは悟りを得たと勘違いしてる人。困りますねぇ。」
「えぇ・・・いますね。会社にも・・・自分を神様だと思い込んでる人が・・・」
「そうですね。まわりが特にチヤホヤするとね・・・すべて自分が正しいと思っている人は、経営者に多いんじゃないですか?だから事業が長続きしないんですよ。人間は神様にはなれない。でも人間って神様に近づくために死ぬまで努力しなきゃいけないんですね。そして、少しでも近づけるように努力し続けることが、生まれてきた理由じゃないかな?そのためには施しを繰り返すことだと思います。」
「神様に近づくかぁ・・・こんなことで悩んでいるようじゃ、だめですね。」
「まぁ、我々凡人は、一つづつ乗り越えるしかないでしょう。私は、訪ねてくれた人のために、少しでも歩くコースなどのアドバイスができればと思って声をかけるんですが・・・何も言わずに出て行く人が多いですね。でも、中には、時々、何かの力で引き合わされたように、ピタッと気持ちの会うこともあります。そんな時は、今日のようにいろいろ話しますよ。波長ですかね。波長の会わない人に、いくら話しても平行線ですから・・・でも、不思議なことに、波長の会わなかった人が、しばらくして会うと、以前、平行線と感じていた人が、すごく近親感を感じたりするんですね。何かに気付いたり、体験したりする前と後では、人の発する波長が変わるんですね。それは多分、お互いに近づいたんだと思うんですが・・・お茶の世界なんかもそうですよね。亭主があれこれとお客様のことを考えて準備するじゃないですか。床の花は何にしようか、軸は何がいいか、茶碗や道具は・・・と。でも、実際、招かれる側がそれを何も感じなければ、これも波長と一緒で、平行線ですね。相手のおもてなしに感動したり、感謝したり、心が伝われば・・・技術とかではなく、亭主と客の距離は近づきます。波長が合ってきます。人としてのレベルをあげなければいけませんね。日々修行ですよ。」
「波長か・・・そうですよね。何か、私たち初めて会ったような気がしないんですよ。」
「多分、どこかで、会ってるんじゃないですか?」
「えっ・・・」
「冗談ですよ。」

悩んでないで熊野においでよ!NO,20

執筆 : 
shingukk 2009-11-20 14:53
20分ほど走り、車は、トンネルをぬけ新宮市街地に入る。国道168号線から国道42号線に入る交差点は、普段から大変渋滞する。回り道をしようにも、この地域では、幹線道路はほかにない。時間帯が良かったのか、比較的スムーズに通過できた。
交差点を右に曲がり、勝浦方面へと進んだ。ここから那智山までは、順調に行けば30分位である。車の時計は3時13分を示していた。那智大社には、4時前の到着予定である。先ほどの川沿いの道と変わって、もう少し走ると、今度は海沿いの道になる。

昔は、熊野川を舟で下った人々は、速玉大社に参拝した後、新宮の王子ヶ浜に出て、そのまま、海岸線を那智大社に向かったのである。この王子ヶ浜から高野坂を越える三輪崎までの古道は、海岸の景観が素晴らしく、手軽に歩ける熊野古道として最近は人気がある。高野坂に代わって、明治17年、今の国道42号線に沿った新道ができた。高野坂には、御手洗海岸や御手洗路傍の石碑と地蔵(1,670年代〜80年代に建てられた)がある。また、1,100年代に作られたと考えられる長さ60m余りの石畳がきれいに残る。
その当時の参詣記・藤原宗忠「中右記」には、天仁二年(1,109年)10月27日、寅刻、宿所を出て阿須賀王子に参り幣を奉げる。二十丁ばかり行くと海に出た。北には緑の松林があり、南は白波が幾重にも重なり合って、寄せては返している。空と海は、遥か彼方まで遮るものもなく広々として、島影など全くない。ここは日本の南の果てであろうかと思われる。と王子ヶ浜のことを書いている。900年経った今も眺めはまさにその通りである。しかしながら目に見えないところでは、毎年ウミガメの産卵が確認される王子ヶ浜も、年々ウミガメの上陸数が減少していて、ここ数年の環境変化が危惧されている。次の世代の人々には、ここでウミガメが産卵していたことなどは、昔話になってしまうのだろうか。

車は、三輪崎にさしかかった。熊野古道・高野坂を歩くと、丁度このあたりに出てくる。更に5分ほど走ると、新宮港から海沿いの道に変わる。
「彼女と、こうなって良かったんでしょうか?」彼の唐突な質問に私は言葉を捜した。
「さぁ、どうなんでしょう・・・私も若い頃、何度か恋愛をして、何度も別れて、その時はショックでしたが、結局は今のところに収まったわけで・・・絶対結婚すると思っていたカップルが別れたり、まさかと思うような人と結婚していたり・・・縁なんて不思議ですよね。」
「そうですよね・・・こうなって良かったんですね。」
「んん・・・こうなって良かったかどうかはわかりませんが・・・こうなるのが自然の流れだったんじゃないですか?こうなったという事実だけを受け止めればどうですか?答えなんてありませんよ。結婚なんて、この人以外考えられないなんて言っていても、まったくの他人同士が一緒に暮らすわけですから、そのうち、なんでこの人と結婚したんだろうなんて思いますよ。そうなったらもう我慢あるのみですよ。思い通りに行かないし・・・うちなんか、しょっちゅう衝突しますよ。そりゃそうでしょう。生まれた環境も育った環境もすべて違うわけですから・・・子供たちまで、母親の味方をして、お父さんが悪い、お父さんが悪いと言ってきますし・・・お父さんはつらいんです。ひとりで耐えるだけです。でも、お互い相手に寄りかからないよう努力も必要ですよね。私なんか、もし家内が、一週間いなくても、自分でご飯作ったり、洗濯したりできますよ。単身赴任のときは、料理も作ったし、結構エンジョイしてましたから・・・家内も私がいないほうが、うるさいのがいなくて、ほっとできるんじゃないかな・・・」
「えっ、そう思うんなら、口うるさくしなきゃいいじゃないですか。」
「そうですね・・・でも、それができないんですよね。結婚生活って、まぁ、相手の良いところも悪いところも認めなきゃ仕方ないんですよね。そして、無理に自分色に染めようとしないことでしょうか。」
「知り合ったきっかけは何だったんですか?」
「私たちは見合い結婚なんですよ。独身時代を考えると、見合い結婚なんて考えられないんですがね。37歳のとき、母親に強引に勧められて・・・それも母親の顔をたてる程度の気持ちだったんです。朝、その話があって、別の日なんて言っていたら、また面倒臭くなりそうなので、今晩にしてもらって・・・とお願いしたんです。そんなこと急に言われても、相手の都合もあるだろうし・・・と困ってましたが、今まで今度今度と言って何度もすっぽかしたことがあったので、母も私の気が変わらないうちに、善は急げと思ったのでしょう。結局、相手も今夜でいいですよ。ということになって・・・お互い紹介してくれた親戚の人と一緒に食事場所に行ったんです。十月でしたね。会った瞬間、この人に会うために今まで独身でいたんだと思いましたよ。ちょっとかっこよくないですか。それから、3ヵ月後の1月に結婚したんです。」
「ふぇ〜、スピード結婚ですね。」
「そうですね。相手の親に、まだそんなに付き合ってないのにえぇんか?と言われましたよ。10月に初めて会って、11月に結婚のお願いに行ったんですから・・・父親としては心配でしょうね。でも、大事にしますから結婚させてください。とお願いしたんです。そうしたら、お父さんは、まぁ、おまえがそう言うんなら、いっしょになったらええやろ。と言ってくれたんです。どんな気持ちだったんでしょうね。潔い父親だと思いましたよ。私の娘が年頃になって、もし、こんな場面があったら・・・あのときの父親の真似はできないかもしれないけど・・・でも、自分の子供を信じることですね。でも、縁って不思議ですね。もし、10月に何かの都合で会えなかったら、どうなってたんでしょうね。結婚してなかったら、私たちの子供も存在しない訳ですし・・・不思議ですね。後で聞いたんですが、その前に、私の母は、中辺路の滝尻王子の近くにある一願寺というお寺に願掛けに行ったらしいんです。願い事がかなうって聞いたらしくて・・・結婚後、お礼参りも行ったそうです。その話を聞いて、私たちも長女が病気の時行きました。そこと、玉置神社にも行きましたよ。正式にご祈祷してもらいましたね。すがる思いでした。お陰様で娘の病気も全快しましたよ。」

悩んでないで熊野においでよ!NO,19

執筆 : 
shingukk 2009-9-24 14:41
瀞峡ウォータージェット船乗り場がある志古から五分ほど車で川下に走ると、「熊野川の川舟下り」の乗り場・川舟センターがある。

川舟は、流域の人々や熊野三山にお参りする人々の重要な交通手段として、昭和30年代まで、筏流しと共に熊野川の風物詩であった。国道が開通すると共に、人々や木材は、陸路を利用するようになり、次第に姿を消していった。
筏流しは最盛期には九百人余りの筏師が活躍しており、明治時代の中頃から昭和十七年頃までは、夏季、特に雨が多いこの地方では、川の増水により筏の出荷量が減るため、中国と北朝鮮国境の鴨緑江(おうりょくこう)に、出稼ぎに出たという。その当時は、勝浦港から船で大阪に出て、大阪から下関まで汽車に乗り、更に、関釜連絡船で釜山に、そこから汽車を乗り継ぎ、筏の出発点・恵山鎮まで行った。恵山鎮から河口まで約二百里(800km)、二週間近くかかって下ったという。しかし、稼ぎは、内地より何倍も良かったらしい。昭和39年、熊野川の筏流しの歴史は終わった。しかし、十五年後の昭和54年(1,970年)八月、北山村で五月から九月の間、観光筏下りとして復活した。最近では、若い後継者が筏の棹指しの技術を習得している。「棹三年、櫂八年」と言われた筏流しの技術を後世に引き継いでほしいものである。
また、熊野川の交易を一手に引き受けて、長い間働いてきた団平(だんぺ)という川舟も、昭和30年代に建設されたダムによって姿を消した。全長11m前後、幅1,5mほどの杉の木でできた木造船で、四月から十月は南風が吹き、帆をあげて川を上った。風のない時には、二隻を四人がかりで曳いた。前のめりで川原を進む様を絵図で見たことがある。物資を積んだ団平を流れに逆らって引っ張ることはかなりの重労働だったようである。この川舟も熊野川が川の参詣道として世界遺産に登録され、熊野古道を歩く人が増えたこともあり、平成17年9月、本宮大社と新宮の速玉大社を結ぶ道の一部として復活したのである。語り部が同乗して、川沿いのガイドをしてくれる。川舟下りの乗り場といっても、特に何もない。川原に直接船をつけて乗船する。船が岸を離れると目の前に切り立った山が迫り、滝や奇岩が続く。道路から見る景色と違って迫力がある。約16km、1時間半かけて新宮・速玉大社横の権現川原まで下る。下船場所も乗船場所同様、特に何もない。直接川原に船をつけるのである。しかし、昔は、この川原に川原町があって賑わいを見せていた。


平成19年川原家横丁が速玉大社の横にオープンした。
伊勢と熊野の交通の要衝として、また、熊野川流域の産物の交易の場所として、江戸時代から昭和にかけて、熊野川河口権現川原には、簡易住宅・川原家(今で言うプレハブ)が建ち並び、賑わいを見せていた。
(古くは、熊野年代記に778年奈良時代、新宮川原に十一軒が建ったが大水で流失したとある。また、平安時代にも存在したことが推察される)
最も賑わったのは、明治末から大正時代にかけてで、最盛期で300軒以上もの川原家が軒を並べた。しかし、昭和10年熊野大橋ができ、成川の渡しがなくなり衰退していった。昭和25年最後の1軒の鍛冶屋が引き払って川原町がなくなった。
川原町での代表的な商売は宿屋。次いで鍛冶屋、飲食店と続き、みやげ物屋、魚屋、履物屋、米屋、たばこ屋、酒屋などなど・・・
標準的な川原家は、間口2間、奥行3間の6坪(約20平方メートル)12畳
宿屋は、町中にある宿屋は料金が高いため、筏師や船頭が川原町の宿屋をよく利用した。冬場は、筏が多くなったので棟を継ぎ足して増室した。
鍛冶屋は筏を組むためのかん=かすがいを造る鍛冶屋が多かったが、他にも山仕事の道具などを造る鍛冶屋もいた。
取引された商品は、熊野川流域からは、材木、炭、鉱物(銅、石炭など)、木工品、農産物、獣肉、などなどが運ばれた。
反対に米や塩、海産物、日常の生活必需品を買って持ち帰った。
川原家の人々は、船町、相筋に家を持ち、そちらを揚がり家と呼んだ。
水が出たときは、揚がり家に川原家をたたんで非難した。
「川原よいとこ3年3月、出水さえなきゃ蔵が建つ」とまで唄われた。


川舟センターを少し過ぎたあたりで、助手席の彼は目を覚ました。
「気持ちよさそうに寝てましたね。」
「あっ、すみません。つい・・・ウトウトしてしまって・・・どれ位寝てましたか?」
「いやぁ・・・ほんの10分程度ですよ。」
「そんなもんですか・・・でも、すごく寝たみたいな気がします。」と言って、「あ〜ぁ!」と両腕を後方に伸ばした。
「でも、いいところで目を覚ましましたね。このあたりから少しの間、山が川に迫り、滝がいくつもあり、きれいなところですよ。まず、はじめの滝は、銚子口の滝です。」と言って左手を指差した。木々の間に銚子口の部分がかすかに見えるのだが、彼はすぐに見つけた。
「さぁ、それじゃ、寝起きに首の運動でもしますか?」キョトンとした顔で私を見た。
「次は右手、ほら、あのガードレールのところで右上を見てください・・・はい、ここですよ。見えましたか?ここが、布引の滝。」
「あぁぁぁ・・・見えましたよ。」もっとゆっくり走ってと言わんばかりに答えた。
「雨が少ないと布引じゃなく、糸引きになっちゃうんです・・・さぁ、次は、左。木の中に隠れてますから、一瞬しか見えませんよ。あそこです。蛇和田の滝。蛇が岩場を這っているように見えるからついた名前らしいんです。でも、三段に落ちていることから、三重の滝とも呼ばれています。」身体を前かがみにして、覗くように見ている。
「そちらばかり見ていたら見逃しますよ。次は、右後方・・・」と、その時、かすかに
「ゴキッ」という音を聞いた。
「イテテ・・・」彼の首が鳴った。が、すぐに右後方を見て
「わぉ!これはすごいわ。立派な滝じゃないですか。」首はたいしたことはなさそうである。「この滝は、葵の滝。別名、白見の滝とも那智の裏滝とも呼ばれてますよ。川向左手の岩場を見てください。岩場の中ほどに狭い道があるのがわかりますか?昔の川端の道ですが、このあたりは、山が川岸まで迫ってますので難所だったんですね。後白河法皇がこの先の飛鉢峯の専念上人に祈祷を依頼するため宣旨を送ったところ、険しい道なのでここで引き返したという宣旨(せんじ)返りです。」彼は首の体操ですっかり目覚めたようだ。
「川舟下りも人気ありますから、この次は是非、乗ってみたらどうですか?川舟からの景色も格別ですよ。」その後も、骨嶋、釣鐘岩、飛雪の滝など奇岩や滝が続くドライブコースであるが、なんと言っても、目線を下げて、川舟から見る景色にはかなわない。
また、最近、葵の滝周辺で真っ白な日本カモシカが時々出没するらしい。宮崎駿の「もののけ姫」に登場するようなカモシカが親子で現れるらしい。写真やビデオに撮られた姿が地方紙に載ったこともある。なんとも神秘的である。

悩んでないで熊野においでよ!NO,18

執筆 : 
shingukk 2009-8-4 15:38
はじめて大雲取を歩いたときは、職場の後輩を誘い二人で歩いた。
熊野川町小口までは、家内に車で送ってもらい、8時頃から歩き始めた。
小口から那智山に抜ける大雲取越えで最初に出迎えてくれたのは、古道沿いの民家の飼い犬であった。静寂な小口の集落に響き渡るような鳴き声で吠えられた。世界遺産に登録され、最近では、古道ウォーカーも増えたせいで通行人にも慣れたのか、あまり吠えなくなったようだ。数軒の民家を過ぎると、うっそうとした森の中に引き込まれるように坂道は続く。まさに黄泉の国に通じるような・・・冷気と湿気、苔むした石、スタート地点からきつい登り坂である。道の傍らには、数十年前まで人が暮らしていたとわかる石垣が続く。
約20分ほど登ったところに、円座石(わろうだいし)がある。わろうだとは、昔の円形をした座布団のことで、この大石の上に刻まれたわろうだに、熊野の神々が座って談笑したと伝わる。その大石には、修行僧により阿弥陀仏・薬師仏・観音仏の梵字が刻まれている。ここまででもかなり体力が消耗していたが、円座石から更に登る。会話はほとんどなくなっていた。歩くのに精一杯。昼間でも薄暗く、なにやら霊気漂う道である。

大雲取・小雲取越えの道端には、いくつかの歌碑が建てられている。
「わが越ゆる大雲取の山中に円に坐す地蔵菩薩はー杉浦勝」息が上がって苦しいときにほっとさせられる。楠の久保旅籠跡の少し手前に、休憩所と水飲み場がある。そこで10分ほど休憩した。二人は水筒に用意していた熱いお茶を飲んだ。ここで、水筒のお茶を飲まずに水道の水を飲んでいたら、あとで少しは救われたのだが・・・

「鯉のぼり大雲取の一軒にー須川峡生」
楠の久保旅籠跡を過ぎると、更に急な登り坂だ。ここから「胴切坂」と呼ばれる心臓破りの坂が続く。この坂を小口方面から登ってくると、このあたりで足の疲れもピークを向かえるが、皮肉にも
「風のゆく梢の音か瀬の音か、下りの道は心たのしもー土屋文明」の歌碑がある。那智大社方面からを想定して建てたのであろう。
小口を出て、最初の峠が標高870メートルの越前峠だ。道は最短距離を一気に登る。これでもか、これでもかと登る。その当時は、熊野古道の地図もなく、どれ位進んだのか、あとどれ位あるのか、何もわからない状態であった。一応、事前に要所・要所の目安や峠などは確かめておいたが、あてにならない。現在は、500mごとの道標が建てられている。

「瑠璃鳴くや雲取山のいきいきとー池本皎月」10時半頃、ようやく越前峠に到達した。
「輿の中、海の如しと嘆きたり、石を踏む丁(よぼろ)のことは伝えず」土屋文明の歌碑がある。1,201年後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家が、輿の中海の如く・・・と書きとめている。それを皮肉った歌である。私なんぞ自分ひとりで登るのもひぃ〜ひぃ〜言っているのに、乗り心地が悪いと嘆くとは・・・と言ったところである。
少し休憩して先を急いだ。

「虎杖(いたどり)のおどろが下をゆく水のたぎつ早瀬をむすびてのみつー長塚節」

「紀伊のくに大雲取の峰ごえに一足ごとにわが汗はおつー斉藤茂吉」
途中、石倉峠を越え、11時半頃、中間地点の地蔵茶屋跡に着いた。地蔵茶屋跡の傍の谷川で顔と手を洗って、昼食をとることにした。まるでピクニックのようだが、このとき、二人ともかなり疲労困憊していた。その証拠に、地蔵茶屋跡から2kmほど歩いた場所で、私より十歳も若い後輩が足を攣ってしまった。その後輩は、普段から野球をやっていて体力にはかなり自信があったようで、私には少なくとも負けないと思っていたようである。幸いにも後輩は、私のマッサージと少しの休憩で回復した。このころには、水筒のお茶はすでに少なくなっていた。水飲み場があれば、持ってきた飲料に手をつけず、水飲み場の水を飲むべきである。持ってきた飲料は、少しでも緊急用に備え残すことを教訓とする。それと、瞬間冷却剤なども常備すること。
疲労もある時点を過ぎると、惰性に変わる。いつの間にか、風が心地よく感じるようになっていた。山並みの美しさ、鳥の鳴き声、名も知らぬ野の花・・・何か記憶喪失になっていたのが、急に記憶が戻ったような感覚で、あぁ・・・気持ちいい・・・あらゆるものが心地よく身体に入ってくる。それらは急に現れたわけではない。今まで気がつかなかっただけである。
舟見峠では、はるか眼下に広がる太平洋に向かって
「おれは生きてるぞ〜!」とこんなに自然界のあらゆる力のお陰で生かされている喜びを叫びたい気分であった。舟見峠から先は、尾根道をずっと下る。3kmほど下ると那智高原、そして更に1kmあまりで、那智山青岸渡寺・那智大社。やっとの思いで到達したのである。達成感が疲労感を追い越し、清々しい気分だ。無性に手を合わせたくなった。まずは、那智大社の拝殿へ、目をつぶり手を合わすと、私の心は「ここまで、無事来させていただいてありがとうございました。」と感謝していた。今まで、味わったことのない心地よさである。また、いつも、神社ではお願い事ばかりしていたことにも気付いた。それと同時に、自分の非力さに気付かされていた。自分の悩みなんか何とちっぽけなものかと思えるのである。「こんなに頑張っているのにわかってくれない。」とか「俺が・・・俺が・・・」などと思い上がったことをよく考えていたと・・・感謝することを忘れていただけである。それが理解できると、身体の奥底からやる気がみなぎってきた。大きなことはできなくても、一歩一歩、目の前のことに真剣に取り組もう。過ぎ去ったことはくよくよしない、先のことも思い悩まない。今、この時を大事に。何度か聞かされたことがあるセリフだ。今、初めて、自分の身体の中から湧き上がるような思いとして理解できた。身体でわかると何と簡単なことか。言葉として理解できても、なかなか身体や頭がついていかないことが多い。その時、私は私にかけた呪いの桎梏から解き放たれたのである。

人間は悩みの中にいると、どんどんその渦の中に引きこまれてしまう。逃げ出せなくなってしまう。最近、「いじめ」が原因で自殺する若者が多い。例えば、クラスの中でいじめられている場合など、決して、その人達と無理に付き合う必要もないのだから、逃げ出すのも戦術である。学校を休むことなんて長い人生の中でなんでもないことだと思うし、一歩距離をおくことで、その人達しか見えなかった自分の目の前に、その人達の後ろや周りにいろんな人がいることに気付く場合だってある。お父さんやお母さんがいる。将来あなたと結ばれるはずの運命の人がいる。そして、将来のあなたの子供たちがいる。そして、明るい未来がある・・・なんかワクワクしてくる。学校を休んでも、決して家に閉じこもって考えないで外に出てみる。「熊野古道」なんか最高である。中でも「雲取越え」なんかは最高である。厳しい道を歩くことは大変である。しかし、熊野の大自然の中に身をおけば、二〜三人の人に振り回されている自分がバカらしくなって笑ってしまうかもしれない。地球上の生き物の中で、たかが二〜三人の人間がどうであっても、何億という生き物が「がんばれ!」と励ましてくれているように感じるかもしれない。そう、木々や草花、鳥や動物、そして、時々、道で出会うよく似た波長を持った人々。不思議なことではない。「熊野」に足を踏み入れるだけで、徐々に変わってくる。身体と心に着いた垢が、いつの間にか洗い流されていくような錯覚を覚える。どう感じるかは、五感が開放されていることが条件で、その人その人によって違うかもしれない。しかし、五感さえ開放すれば、熊野の地はきっとあなたの心を占拠しているドロドロとした垢を洗い流してくれる。

人間には、その人に必要な悩みや苦労を与えられるものである。どうして自分だけ・・・と考えがちだけど、本当は、みんな人間なんて弱いものである。神様は、中でも強くなってほしいと期待をして自分にだけ与えた試練かもしれない・・・熊野古道を歩いているときに、激しい雨が降ってきたり、足に豆ができたり、飲み物がなくなったり・・・すべて与えられたものと受け止めて、ひたすら歩くことができたら、歩き終わったあとで、必ず何か感じるものである。そして、少し前までの悩みが消えているか、小さくなっていることに気付く。熊野権現がきっと心の垢を洗い流してくれたのである。

午前中、熊野川沿いに車で走ってきた道を、今度は戻って行く。
来るとき、彼は、考え事ばかりしていてあまり景色を見てなかったので、今度はじっくり見てもらおうと思った。が、10分もしないうちに、いびきが聞こえてきた。相当お疲れのようである。それと、私に気を許したのであろう。ここは少しの間、そぉ〜っとしておいてあげよう。私は、ひと時、川沿いの大好きなドライブコースを一人で楽しむことにした。

悩んでないで熊野においでよ!NO,17

執筆 : 
shingukk 2009-6-10 11:53
本宮大社から速玉大社へは、従来、熊野川の水上交通が一般的であったが、雲取越えが文献に現われるのは最も古いものとしては、1100年代の西行法師の歌に「雲取やしこの山路はさておきてを口(小口)かはらのさびしからぬか」という歌がある。
その後、1201年、後鳥羽上皇の熊野御幸で、文献上に初めて「雲取越え」がでてくる。
雲取越えとは、那智大社と本宮大社を結ぶ山岳ルートである。本宮大社を出ると車で5分ほどのところに「小雲取越え」の登り口がある。ここから小口まで約13キロを「小雲取越え」といい、小口から那智大社までの約15キロを「大雲取越え」という。小雲取・大雲取越えを合わせて「雲取越え」といい、中辺路ルート最大の難所と言われた。

請川から1キロあまり登ると熊野川が一望できるポイントがある。振り向かなければ見逃してしまう。その先、松畑茶屋跡を過ぎると万才(ばんぜ)峠分岐に出る。ここは伊勢路との分岐点。伊勢路を選ぶと瀞峡乗り場の志古のあたりに出て、渡し舟で熊野川を渡り、紀和町に入っていく。
万才峠分岐から約30分ほどで小雲取の絶景ポイント「百間ぐら」に着く。ぐらとか蔵はもともと断崖絶壁の意味があったとか・・・神倉などもその類かも・・・天気の良い日は、熊野三千六百峰の山並みがとてもきれいに見える。本宮方面には、果無山脈の稜線が美しく眺められる。百間ぐらから眺める熊野の山々に沈む夕陽は、思わず手を合わさずにいられないほど素晴らしい。

小雲取・大雲取越えの道端には、道中の苦しさをひと時ときほぐしてくれる歌碑が13本建つ。そのうちの6本が小雲取の道中にある。石堂茶屋跡付近に
「歩まねば供養ならずと亡き母がのたまいていし雲取に来ぬー嶋正央」の歌碑がある。亡き母の供養のために熊野にお参りに来たが,熊野への道は厳しい、でも、歩かねば供養にならない、がんばろう!といった心境だろうか。
石堂茶屋跡から桜峠まで普通に歩いて約三〇分、桜峠を挟んで2つの歌碑が建つ。
「まさびしきものとぞ思ふたたなづく青山のまの川原を見ればー斉藤茂吉」
「どちらへも遠き山路やおそ桜―涼菟」
桜峠からは小口の集落に向かって約三キロ標高差3百?ほどの下りが続く。桜茶屋跡から大雲取山の眺望はすばらしい。昔は、桜茶屋から小口の集落をはさんで大雲取を越えてくる白装束の巡礼姿を見つけては、餅をついて用意をしたらしい。昔は・・・といっても昭和三〇年代まではこの道が生活道路だった。桜茶屋跡を少し下ると
「小雲取のぼりて来ればかるかやに光和みて山つたふ風―杉浦勝」の歌碑がある。更に小和瀬の渡し場跡までの下り坂の間に
「かがなべて待つらむ母に真熊野の羊歯の穂長を箸にきるかもー長塚節」いつ来るかいつ来るかと私を待っている母に熊野のしだを箸に持って帰ろう。
「男手に牡丹餅にぎり山祭りー平松いとど」

小雲取は大雲取に比べると標高差も5百メートル弱で、一部を除けば比較的アップダウンも少なく、木立の中快適なウォーキングを楽しめる。ただし、小口周辺の交通の便はかなり悪いので事前に調べておく必要がある。

悩んでないで熊野へおいでよ!NO,16

執筆 : 
shingukk 2009-3-3 16:19
気がつくと、伏拝王子の近くの茶畑の中で、彼は何度も
「気持ちいい〜。」を連発していた。
「こんないいところに連れてきていただいて、ありがとうございました。今度は、充分時間を取ってゆっくり歩いてみます。なんだろ・・・すごく身体が楽なんですね。」
「自分らしさって何だと思いますか?」私は彼に問いかけた。彼は戸惑っていた。
「自分らしさって作るものじゃないですよね。ありのままでいいんじゃないですか?人にどう思われようがいいんじゃないですか?・・・今のままでいいんじゃないですか。素直に感動したり、泣いたり・・・笑ったり・・・そんなあなたが好きですという人がきっと現れますよ。計らいの心は、欲から生まれるって言いますから・・・好かれたいと欲を出すから、かえっておかしいんですよ。計らいの心が自分らしさをなくしてしまっているんじゃないですか。ありのままでいるほうがよっぽど魅力的ですよ。今のように・・・」
彼は、噛みしめるように頷いた。彼自身が自分にかけた呪いから開放されだしたようである。

伏拝王子から本宮大社までは、約3km。標高にして二百メートルほどのなだらかな下り坂である。私たちは、ここからまた車で本宮大社に向かう。
「風のゆく梢の音か瀬の音か、下りの道は心たのしも」土屋文明が雲取越えで詠んだ歌が心地よく頭をかすめる。伏拝王子から少し下ったところに、三軒茶屋跡がある。ここは、中辺路ルートと小辺路ルートが合流した場所で、人通りが多かったのであろう。また、「九鬼ヶ口関所」という看板も目に付く。実際この場所にあったかどうかは別として、この界隈にあったことは確かである。通行手形というと、将棋の駒を大きくしたような形で「通行手形」と書いてあるものを想像する人が多いが、本当は「往来一札之事」と書いた書面で、その書面にその村の庄屋などが、旅する人の住所や名前、年齢、目的などを記入し、関所をスムーズに通過できるようお願いしたものである。熊野本宮語り部の会の案内では、江戸時代末期文久四年の「往来一札之事」のコピーを見せて説明してくれる。

伏拝王子から本宮大社まで、古道を歩くと1時間半ほどかかるが、車だと10分ほどの距離である。本宮大社は多くの参拝者で賑わっていた。
熊野本宮大社は、元々、熊野川、音無川の中洲・大斎原(おおゆのはら)に鎮座していたが、明治二十二年の大水害で流失した。幸い流失を免れた上四社のみ明治二十四年現在の高台に移築再建された。本殿入口の門の前には、熊野では、神の使いとされた三本足の烏・八咫烏の旗が風になびいていた。
「ご存知ですか?あのマーク。日本サッカー協会のマークに八咫烏が使われている関係で、2002年日韓ワールドカップの年には、日本サッカー協会が、熊野三山に大会の成功と日本チームの必勝祈願に来たんです。また、2006年のドイツ大会でも役員が必勝祈願に来ましたよ。」
「へぇ〜そんなつながりがあるんだぁ〜」興味深げに見上げている。
「1枚どうですか?お撮りしますよ。」デジカメに収め、門をくぐった。
「本宮大社・上四社は、社殿は三つしかありませんが、第一殿・第二殿が相殿になっていて第三殿、第四殿と並んでいるんです。その証拠に社殿の前の賽銭箱が四つあるでしょう。熊野三山は神仏習合で、仏様が神の姿で現れて衆生を救ってくれるという本地垂迹説からきているんですよ。第一殿は熊野那智大社の主神。熊野夫須美神・イザナミノミコトで本地仏は千手観音菩薩をお祀りしてます。第二殿は熊野速玉大社の主神。御子速玉之男神・イザナギノミコトで本地仏は薬師如来。第三殿は証誠殿、熊野本宮大社の主神。家津御子大神・スサノオノミコトで本地仏は阿弥陀如来をお祀りしています。この仏を信じ名号を称えるものは、その功徳により極楽浄土に導いてくれるというご利益があります。死後の往生を証明してくれるというところから証誠殿と呼ばれています。以上三殿を三所権現と言います。第四殿は若宮、天照大神、本地仏は十一面観音菩薩です。本来なら上四社の右手に中四社、下四社と建ち並んでいたのですが明治二十二年の洪水で流され、現在は旧社地・大斎原の石祠に祀られています。流失前の全体の規模は、現在の8倍ほどあったそうです。これだけでも荘厳な感じがしますが、想像してみてください。すごいでしょう。明治二十二年の洪水では、この流域は壊滅状態だったんですよ。特に上流の奈良県十津川村は、土砂崩れで復興の目途も立たず、2千8百人余りの住民が十津川村を捨て、果無山脈を生活道具や子供を背負って越えて、北海道に新天地を求めて移住したんです。それが現在の滝川市の近くにある新十津川町なんですね。大変な苦労だったと思いますよ。河口の新宮市でも熊野川が氾濫して、まちなかが2〜3m浸水したそうです。速玉大社の近くの清閑院というお寺の石垣に、その時の水位を記した看板がありますよ。現在も世界のあちこちで天災や人災が起こってますが、人間って偉いですね。こうやってしっかり立ち直っているんですから・・・でも、文明社会にどっぷり浸かってしまうと、イザと言う時、とんでもないことになるかもしれませんよね。自分のことばかり考えて・・・まぁ、そうならないためにも、熊野をしっかり歩いて、あらゆるもののお陰で生かされていることを実感して、周りに感謝できる心を養ってほしいと思いますね。
本宮大社の参拝の順番は、まず主神の第三殿、次に第二殿、第一殿と参り、最後に第四殿に参るのが慣わしです。中世の公式ルートと同じです。京都から中辺路ルートを通ってまず本宮に参り、熊野川を下り新宮へ、そして海岸線を通って那智へと参ります。」
彼は、説明通り、第三殿から順番に参拝を始めた。
一日で熊野三山を回るには、本当に忙しい。本宮大社を出発したのは午後2時半頃だった。

悩んでないで熊野へおいでよ!NO,15

執筆 : 
shingukk 2008-12-11 11:49
私がホテルに就職して16年目、新館の支配人の立場にいたとき、何とか自分でしなければと素直に周りに助けを求められなかった。硬筆の塾に行けないと動揺した息子と何ら変わらない自分がダブってくる。最終的には成り行きに身を任すしかなかった。と言うよりジタバタしても始まらなかった。それが私を救ってくれたのだと思う。導かれるように熊野古道を歩いたのは、その苦悩のおかげである。自分がこんなにやっているのに、誰もわかってくれない。と思い続けていた時期である。人のアドバイスに耳を傾けなかった時期である。
精神科医へ行くことを家内に打ち明けたとき、
「病院へ行って診てもらったほうがいいよ。もし、どこも悪くないと言われても、先生にお願いして、3ヶ月間安静を要すと診断書に書いてもらったら・・・」と言われたことを、ハッキリと覚えている。私を精神科医に行かなくて良い状況にしてくれたのは、そのホテルの役員でもあったメイド長であった。私を入社以来、息子のようにかわいがってくれた人である。新館に行くまでは、時には厳しく、時にはやさしく接客の基本をすべて教えてくれた。新館は、従来の旅館のあり方を一新するために、表立っては手伝ってもらえなかったが、影でかなり力を借りた。悩みのスパイラルの真っ只中でさまよっていたが、意を決してメイド長を訪ねた時のことである。自分の気持ちや精神状態を打ち明け、病院へ行くことを告げると、
「ばかっ!あんたはどこも悪くないよ。病気でもなんでもないよ。まともやから心配いらん。私が保証したる。しっかりしなさい!・・・かわいそうに・・・あんたじゃなかったら誰がやれる?こんなに一生懸命がんばってるのに・・・」と泣きながら私を抱えてくれた。不思議なもので、その時の私に最も効果のある薬はその言葉であった。言葉が最も良薬であった。
「あんたじゃなかったら誰がやれる?こんなに一生懸命がんばってるのに・・・」であった。その言葉に救われた。的を得れば言葉は素晴らしい薬になる。私の心はたまには褒めてもらいたいと思っていたのであろう。褒めてくれる人を渇望していたのである。その気持ちを別の上司に打ち明けたとき、「甘ったれるな!」と言われ、更に落ち込んだことを覚えている。的を得なければ言葉は毒薬にもなる。私は褒めてくれる人を探していたのかもしれない。そのお陰で私の心は変わった。病院へ行くことはなかった。しかし、それで全てが解決したわけではなかった。私が私にかけた呪いの桎梏はまだくすぶっていた。最後の最後に、自分まで自分のことを見捨ててしまったらおしまいである。せめて自分ぐらいは自分のことを褒めてあげなきゃかわいそうだ。しかし、人からの褒め言葉を渇望しているときは、なかなか自分のことを褒めることができない。

常連のお客様から 
「あなたらしさが出てないと思う。もっと自信を持って、自分が思うようにやってみたらどうですか。以前のように自分らしさを出して、お客様に目を向けてみてはどうですか。うまくいかなかったらその時は、責任を取ればいいと思う。今のあなたは、上司ばかり見ていますよ。自分らしさを出さずに上司のいいなりでやったことに、責任を取らされるより、きっといいと思いますよ。」と言われた。私のルサンチマン的精神状態を見抜かれていたのかも知れない。
どうしたらお客様に喜んでもらえるかということより、どうしたら上司の鼻を明かせるかということばかり考えていたように思う。私の目線は完全に違うところを見ていた。
また、オープン当初は、クレームが続き、箸のこけたようなことでも「支配人呼べ!」と呼び出された。そのうち、「あぁ、またか!」と思い、ただペコペコと頭を下げているロボットのようになっていた。こんな些細なことで、どうしてこんなに怒るのか?お客様に対して反対に腹立たしく思ったこともある。しかし、当時の自分の悩みや苦しみがそうであったように、周りが見ればそれほど大したこともない些細なことでも、それに直面している当人にとっては大きな問題であり、許せない怒りなのである。こんなことぐらいと思っている人と、とんでもない大きな問題と思っている人との距離は、その時点ですでに隔たりが生じているのである。口先でいくら謝っても、相手の身になっていなければ、クレームは更に大きくなることに気づかなかった。「あぁ、またか!」「たかがこんなことで・・・」と思いながら、頭を下げていたのだ。まずはそのクレームを真摯に受け入れることが、問題解決の糸口である。しっかりと相手の訴えている内容を聞く。そして、もし、自分が相手の立場なら、どうか?腹が立つだろうと思えば、まず、相手を理解すること。腹が立つことは同じであるから共感すること。そして、心から謝ること。ここまでできれば半分は解決したようなものである。
ある時、常連のお客様に
「私は、思ったこと何でも言ってしまうので、どこへ行っても、うるさい客が来たくらいに思われてるのわかってるの。でも、悪気がないからね。それよりか、ちょっと注意しただけなのに、いつまでも気にされるほうがつらいのよ。あぁ?、言うんじゃなかったって・・・自己嫌悪に陥るのよ。だから、済んだことは済んだことで、これから気をつければいいことであって・・・いつまでもウジウジされると、こちらが構えてしまうの。思ったことが言えなくなって疲れるわ!また、来たいし・・・感じたことぐらい言わせてよ。」と言われたことがある。それからは、苦情と思わず、私の目の届かないところを見て、報告してくれているんだと思うようにした。それ以後は、お声がかかる毎に、クレームではなくアドバイスを聞きに行ったものだ。あの当時、あれだけ多くの苦情を受けたお陰で、相手の気持ちを少しは考えられるようになったような気がする。私にシャワーのように苦情を与えてくれたのは、あの頃の私には必要だったからである。私が道を間違えないよう「熊野権現」はいろんな人の肉体を借りて憤怒の姿で現れたのであろう。
心から「ありがとうございます。」を身をもって教わったのが、新館オープンから一年近く経った春、熊野古道・大雲取越えを歩いた時のことである。まだ、今日のように「熊野古道」が知られていない時だった。なぜ、熊野古道を歩いたのか・・・不思議でならない。特に、誰かに勧められたわけでもないし、山歩きが好きなわけでもなかった。まして郷土の歴史などに興味があったわけでもないし・・・目に見えない何かに導かれたようでならない。いや、熊野権現がその時の私にもっとも効果的なものを差し出してくれたとしか言いようがない。

悩んでないで熊野へおいでよ!NO,14

執筆 : 
shingukk 2008-9-19 10:38
悩み苦しみと言えばこんなことがあった。私の息子が7歳の時、毎週木曜日に書き方(硬筆)の塾に通っていた。あるとき、泣きながら私の携帯に電話があった。両親とも仕事である。二人の姉はまだ学校から帰っていなかった。はじめは泣声ばかりで何て言ってるのか聞き取れなかった。何があったのか落ち着いてハッキリ話すようにいうと、しゃくりあげながら、硬筆のかばんがないということだった。部屋の中や、机の周りなどもう一度しっかり探すように言って一度電話を切った。すると5分後位にまた携帯が鳴った。相変わらず泣声だった。思い当たるところは全て探したようである。それでも見つからなくて電話の向こうではパニック状態になっている様子がうかがえる。
「そんなはずないよ。必ずどこかにあるから、もう一度よく探してみなさい。」と言うと
「全部探したけど、どこにもない!」と反対に怒りをあらわにしてきた。もう硬筆に行けないと思いこんでるようだ。
「落ち着いてよく聞きなさい。」と言い聞かせ、
「何も持たなくてもいいから、硬筆の先生とこに行って、硬筆道具を入れているかばんがなくなったので、どうしたらいいですか?と聞きなさい。先生は、じゃあ、今日は練習できないから帰りなさいと言ったら帰ったらいいし・・・もし、じゃあ、先生が硬筆の道具を貸してあげるから練習していきなさいと言ったら練習してきたらいいし・・・わかった?」少し安心した様子で
「わかった。じゃあね。」と言って電話を切った。
その日の夜、息子が寝た後で、家内の携帯にも何度か電話があり、悲痛なメッセージを残していたことを知った。家内は職務中は、携帯を持っていないようで、あとから気がついたそうである。
「おかあさん、硬筆のかばんどこにあるか知らない?」という泣声メッセージから始まって、最後には
「こらっ!電話に出ろ!くそったれ!」の逆ギレメッセージまで十数回の履歴があった。二人でそれを聞きながら、
「この子にしたら、一大事だったんだね。」と言って大笑いした。大人から見ると、別に泣くことでもパニックになるほどの問題でもないが、子供にとっては一大事であったようだ。同じようなことが人生において繰り返されていることに気がつく。その時、その時の一大事を多く経験して、解決すれば、一大事が一大事でなくなっていく。経験が少ないほど、小さなことに動揺してしまう。ちなみに息子のかばんはどこにあったかというと、いつも掛けている場所に家内の大きなバッグが掛けられていて、その中に入ってしまっていたようだ。まさかその中にあるとは・・・少し中をのぞくだけでも解決したのだが・・・その後、硬筆のかばんはいつも所定の場所に掛けられている。悩みや苦しみは、必要な人に必要なものを与えてくれるものだ。それを乗り越えて次にステップアップしていくのであろう。不必要なものはない。入口があれば必ず出口がある。長さは人それぞれでも・・・

私の小学生の頃はどうだったか? 昭和30年代というと一般的にはまだまだ豊かな暮らしとはほど遠かったように思う。その上、私が小学校1年のとき父が死に、父の残した借金により私たち家族は貧しさのどん底にいたように思う。食費を切り詰めるために兄は同じ市内に住む一人暮らしの祖母の世話になっていた。私と二つ違いの妹、母の3人は、6畳と3畳の二間しかない納屋のような家に移り住んだ。母は女手一人でがんばっていた。時々、借金取りが訪ねてきては、「もう少し待ってください。」と頭を下げていた母の姿が記憶にある。父は当時、自営で木材の運搬業をしていた。丁度、新しいトラックに買い換えて間もない頃に事故がおこった。その日は雨が降っていた。いつものように荷を積んで帰る途中の出来事であった。道はトラック1台がやっと通れるほどの幅しかない。舗装もされていない山道である。夕方で雨、もちろん視界が悪い。狭い山道で一日に数本しか通らない路線バスと鉢合わせになった。父は、乗客の乗ったバスに道を譲るためバックをした。それも通常なら左側である山側に寄せるところだが、谷側の路肩に幅寄せしたのである。あと少し・・・そう思ったとき、後方の谷側のタイヤが路肩にくい込んだ。雨の影響でやわらかくなっていた路肩は、荷を積んだトラックを支えきることができなかった。トラックはまるで立ち上がるような姿勢を取り、やがて深い谷へ轟音とともにのみ込まれたそうである。路線バスの最前列には、事故現場のすぐ近くにあるお寺の住職が乗っており、父の最後を見届けたそうである。ハンドルを握りしめた父は何やら大声で叫んでいたという。後日、住職は、多分、子供たちの名前を叫んでいたのだろうといった。地元の人達の救助作業により、翌朝、父は土砂と材木の中から遺体で発見された。
事故の一週間ほど前、小学校では運動会の予行練習があった。私が小学校1年、兄は3年生であった。運動場の隅の鉄棒に寄りかかるようにして見ていた。父は、何かを察したのか?父兄など誰もいない運動場に予行練習を見に来ていたのである。
父は、トラックを新車に買い換えた借金と、私たち家族を残して逝ってしまったのである。
新しい納屋のような家での私たち3人の生活が始まった。母は日曜日以外は、朝7時半ごろ仕事に出かけ、夕方5時半ごろ帰ってきた。私は子供心に少しでも母の手伝いをと思い、炊事や掃除、それに妹の面倒をみた。何ヶ月か経ったある晩のこと、銭湯に向かう途中の近くの高校のグランドで、母は突然、私と妹を抱え、しゃがみこんで泣き出したのである。五才の妹は「おかあちゃん、どうしたん?おかあちゃん、どうしたん?」と一緒になって泣いていた。私はその時の母の言葉は今でも忘れられない。はっきりと覚えている。母は「ごめんね。ごめんめ。お母ちゃんを許して・・・お母ちゃんね、あんたらを連れて、お父ちゃんとこへ行こうと思いやった。許して・・・ごめんね・・・」妹は、その意味すら理解してなかった。私は夜空を仰いでじっとしていた。少しして気を取り戻した母は涙を拭いて「さぁ、お風呂いこか!」妹と私も、一瞬の出来事を忘れいつものように母に手を取られ歩いた。今思うと、母にとっては人生の中で最も苦しい時だったのかも知れない。しかし、私の息子の悩みも母のその時の苦しみも、その時の本人にとっては、その時のその人の器にあった悩みや苦しみである。第三者の目線で測れるものではない。人は心の色眼鏡を常にかけているのである。心の色眼鏡を外した人だけが、それぞれの悩みや苦しみを差別なく理解できるのであろう。

悩んでないで熊野においでよ!NO、13

執筆 : 
shingukk 2008-8-5 16:21
伏拝王子は、本宮大社旧社地の森が遠望できる場所にある。参詣者は難行苦行の末、やっとの思いで伏拝王子にたどり着き、ここから熊野本宮大社の社殿を伏し拝んだという。「伏拝」の名の由来である。
道が世界遺産に登録されたのは、スペイン・サンティアゴ巡礼道についで2例目だが、熊野古道とサンティアゴ巡礼道は姉妹道提携を結んでいる。サンティアゴ巡礼道にも、歓喜の丘(モンテ・デル・ゴーソ)があり、長い道のりを歩き通し、やっと目的地のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大教会を眺めることのできる丘にたどり着き、歓喜することからこの名がついたそうである。伏して拝んだ我々日本人の先人たちと歓喜する欧米人、国民性の違いだろうか?ただ、感激することに違いはない。心から感激することを忘れてはいけない。
伏拝王子から、本宮大社方面を眺め、旧社地後方の山並みの最高峰が大雲取山である。あの山を越えると「熊野那智大社」である。本宮大社から約30km、通常、二日がかりで歩く。途中の小口で一泊するのが一般的である。本宮から小口を「小雲取越え」。小口から那智大社を「大雲取越え」という。小雲取、大雲取をあわせて「雲取越え」という。熊野古道・中辺路ルート最大の難所とされたところである。

昔から霊場といえば、女人禁制のところが多いが、熊野三山は、昔から何人も受け入れてきた。上皇と共に女院も参られたし、貴族や一般庶民まで女性も多く参拝した。中でも有名な話は、平安時代の恋多き女流歌人和泉式部が、伏拝王子まで来たとき、丁度月の障りとなってしまった。本宮大社に参拝できなくなったことを嘆き
「晴れやらぬ、身の浮雲のたなびきて、月の障りとなるぞ悲しき」と神に詠んだ。難行苦行の末、やっとここまでたどり着いたのに・・・スッキリしない心情を詠った。ところが、その夜、夢枕に現れた熊野権現は
「諸共に、塵にまじわる神なれば、月の障りも何か苦しき」熊野の神は何人も受け入れますよ!と告げ、晴れて参拝されたという。生理は仏教の五体不浄から穢れとされ、参拝できなかったようである。
熊野の神様は、浄不浄を嫌わず、信不信を問わず受け入れてくれた。そのことを熊野比丘尼は全国に説いて廻った。熊野那智参詣曼荼羅図に和泉式部らしき女性が描かれているのも頷ける。

伏拝王子近くには、平成13年NHK朝の連続ドラマ「ほんまもん」の主人公(山中木の葉)の生家となった家がある。この家は、一般の方が住んでいるが、周りの風景や雰囲気から、選ばれたようである。茶畑の上には、主人公山中木の葉の父と祖母の墓が残っている。ドラマ「ほんまもん」で使ったニセモンの墓だ。
私たちは、伏拝王子で本宮大社旧社地の森を眺め、松本さん宅の小高い茶畑に登った。
茶畑からは、熊野川、果無山脈、三里富士、発心門集落などがきれいに見えた。素晴らしい眺めだ。彼は
「あぁ・・・なんだろう・・・とても体が楽になってきますね。」と言って、深呼吸をした。緊張感がほぐれてきたのだろうか?肩の力を抜いて、自然に身を任すことができたようである。先ほどまでの身構えた心から、少し開放されてこの場の空気に身を任せたようである。五感が目覚めつつあるようだ。これで少しは私の話にも肯定的に耳を傾けるだろうか。

十数年前、30歳代後半の自分のことを思い出した。勝浦温泉でホテルに勤務していた私は、新たにオープンする850名ほど収容できる二つの新館の支配人に抜擢された。それも、その新館は、従来の温泉旅館のやり方を一新するため、私と6名の経験者以外は、全て新人で立ち上げることになった。オープン前の備品類の選定・購入や準備から始まり、新しい受入れシステムの構築、新人従業員の教育と目の回るような日々であった。オープンするまでの3ヶ月間ほどは、朝8時頃から深夜1時2時まで毎日のように続き、オープンすると、朝5時頃から深夜1時頃までの生活が続いた。毎日ホテルに泊まりこみで、着替えは2日に一度、家内が届けてくれた。何とかしてやらなければ、という張り詰めた気持ちが、いつしか「俺がやらなければ・・・俺がやらなければ・・・」と自分を追い詰めて、周りが見えない状態に陥っていた。今思うと、私と一緒に働いていた仲間にも苦労をかけたと思う。「俺が・・・俺が・・・」という気持ちが、自分自身の心にバリケードを張り、肩に力を入れて、常にまわりに挑戦的であったように思う。常に身構えていたように思う。人の忠告も聞いているようで、実は頭の中では、すべて否定していたのかもしれない。とても苦しかった。どうしてこんなにやっているのにわかってくれないのか?誰もこの苦労はわかるはずがない・・・と自分でその苦しみを作っていたのである。身近の人に助けてと素直に頭を下げることすらできなかった。人と接するのが好きだったはずの自分が、人を見るといらだった気持ちになり、やがて人を避けたい気持ちに変化していった。その気持ちに気づいたとき、私はその精神状態から逃げたい気持ちで、精神科医に行く決心をした。
あの頃は、経営者を権力者とみなし、自分が卑屈な弱者であり、どんなに頑張っても認められない、ルサンチマン的な精神状態に陥っていたように思う。自分が自分にかけた呪いのような桎梏から脱出するまで、私は当時苦しみ続けたのである。

(1) 2 3 »

英語版ページ

Facebook

Twitter

新宮弁講座 紀南の写真
今日の天気

人気投稿

三重交通ホームページ内の南紀高速バスページです。 南紀熊野・瀞峡の旅は熊野交通 熊野速玉大社 水の国わかやま
新宮市観光協会 和歌山県新宮市徐福2-1-1 新宮駅構内 電話0735-22-2840 info@shinguu.jp